物語論を味方につける
わたしたち人間は、物語と共に生きています。
物語を利用して、自分の人生や、社会の動きをコントロールしようとすることさえありますよね。
そこで、そもそも「物語」とは何か、と考えると、驚くべき事実が浮かび上がってくるのです。
「物語論」とは?
「物語論」は、人文学の世界では比較的最近に生まれた研究領域です。
その幕開けは、1928年、ロシアのウラジーミル・プロップが発表した論文『昔話の形態学』と言っていいでしょう。
ロシアに伝わるいくつもの魔法昔話は、みな共通した構造を持っている、と主張するこの研究は、言わば、物語の内容には形式性がある、という考え方を提示したのでした。
これは当時としては画期的な考え方でした。
もちろん、今でも、「そんなこと考えたこともなかった」という人は多いでしょう。
具体的には、プッロプは、物語の展開に影響を及ぼす人物の行為を「機能」と呼び、さらにその人物が禁を課される、その禁を破る、などの機能が31個つづくと考えました。
プロップの著作の影響がすぐさま広まったというわけではないようですが、1966年、フランスのロラン・バルトが論文「物語の構造分析序説」を『コミュニカシオン』誌に掲載。
プロップの方法論をさらに詳細化し、新たな考え方を提示したのでした。
1972年、フランスのジェラール・ジュネットが発表した『物語のディスクール』の完成度が極めて高く、この本が物語論の決定版のような扱いを今日に至るまで受けています。
物語論は、人間の深層意識をあらわにする
これは、ちょっと、驚くべき話ではないでしょうか。
わたしたちは、フィクションには無限の可能性、無限のヴァリエーションがあると思い込みがちです。
しかし実際には、「物語」の体をなすための土台となる基本条件がいくつかあり、
その条件から外れると、つまらないと感じられてしまうものになる。
例えば、
ある映画の予告編はとても面白そうで、期待して本編を観てみたら、期待したほど面白くなかった……
そんな経験、誰でも一度はあるのではないでしょうか?
映画の予告編は、「これはぜひ観たい!」と観客に思わせるため、本編の一部を切り貼りした、別の映画と言うべきかもしれません。
予告編では、
平穏な日常→それが破壊される→なにかを失う→失ったものを取り返そうとする
そんな物語が提示されます。
もちろん、本編もそのように進むでしょうが、登場人物が多すぎたり、余計な敵がいたり、風景描写がやけに長くて話の進み方がとても遅かったりしたら。
そこに監督の意図があるのかもしれませんが、観客のなかには、いらついたり失望したりする人も出てくるでしょう。
つまり、私たちの感情は、眼の前で展開されるストーリーが、お手本通りに進んでいるか否かで、大いに左右されてしまうのです。
人間の脳の奥底に隠されたメカニズムが、物語の研究によってあらわになった、と言っても言い過ぎではありません。
ただ、付け加えておきますが、もちろんこれは、それが人間の持つ普遍的な反応とは限らず、ある特定のモデルに沿った物語を良しとする文化圏に育った者だけが見せる反応である、とも考えられます。
物語を研究する意味
物語を研究する意味はなんでしょうか?
今日の研究状況を考えると、2つ挙げられそうです。
1:娯楽産業におけるストーリー作りの参考にするため
小説家、脚本家、ゲーム作家、絵本作家、などなど……
人に物語を提供する仕事をしている人にとって、人を楽しませる物語を作る理論があるなら、のどから手が出るほど欲しいでしょう。
あるいは、大衆を自分の思う通りに操りたい政治家にとっても。
そんなときに、物語論は大活躍するわけです。
2:純粋な研究
だからといって、物語論を研究する人が、ストーリー作成や大衆煽動を目的に研究しているということは、考えにくいことです。
ロシアの民話を研究したプロップは、別に作家だったわけではありません。
ただ単純に、気になったから、研究したのです。
これはどの学問にも言えることで、目的に向かって研究するのではなく、「もしかすると、ここに新しい発見があるんじゃないか?」と当たりをつけて(仮設を立てて)、本当にそうかどうかを検討する。これが学問のスタンダードなやり方で、実用的ゴールというのは、時間が経ってようやく見えてくるものです。
他方、研究者でも作家でもない人にとっては、物語論は「人間は特定の物語モデルに好感を抱く」という事実を知るだけでも充分ためになると思います。
反・物語について
ならば。
「物語論」的マニュアルに従わない、わざと抗う、というやり方もあるのでは? と考えたくなりますよね。
実際、そのような試みをする作家は、二〇世紀以降には少なくありません。
話がわざと盛り上がらないようにする小説。
物語らしい構成を持っていない映画。
でも、「そんなもの作っても意味なくない?」と思う人もいるでしょう。
そんなことはない。
わたしたちは、他人が創り上げた「物語」に操られないよう、常に注意していなければいけません。
オウム真理教の信者は、「サリンで苦しんで死んだ人はあの世で楽になれる」と本気で信じていました。それが、彼らに与えられた「物語」だったからです。
太平洋戦争中の日本人の多くは、「日本がアメリカに負けるはずがない」と本気で思っていました。日本に都合のいい「物語」ばかりマスメディアから与えられていたからです。
ヒトラーがどんな「物語」で民衆を扇動したか、……これは、高校の社会の教科書にも書いてあることですね。
「人間は、物語に簡単に操られてしまう」
そう考える人が、第2次世界大戦のあと、急速に増えました。
その結果、「盛り上がり」を拒否しながら、映画や小説を作るというプランを立てる人が出てくるのです。
だから、面白くない作品に出会ったら、
「盛り上がるべきところをわざと抜いてないか?」
「反・物語性を強くすることによって、伝えようとしていることはないか?」
と考えてみてください。
その物語を作った人は、わざとつまらなくしているのかもしれません。
(ただし、そのやり方が、抵抗の手段としてどれほど効果があるのかは、見極めねばなりませんね)
フィクションに巻き込まれるな、フィクションを見破れ
わたしたちの身の回りには、無数のフィクションがあります。
娯楽のためのフィクション、政治的フィクション、人を陥れるためのフィクションなど……
そして、ついつい忘れがちな、しかし重要なことは、フィクションは必ず、誰かの手によって意図して作られた、ということです。
隕石のように偶然降ってきたり、黄砂のような自然現象として湧いて出てくるものではない。
莫大な時間と金を費やして作られたフィクションに、一国の国民の大半が操られる、という事態がいとも簡単に起こることも、歴史上の事件から、もう明らかです。
だから、
「これは誰が作ったフィクションなんだろう?」
「どんな構造のフィクションなんだろう?」
「この物語の中で、自分はどの位置にいて、どんな役割を演じる計画になっているのだろう?」
と、常に考えてみましょう。
これにより、「物語論的知性」を育てられるのです。
そうすれば、上に紹介した反・物語性の手段を取ることも、別の物語で塗り替えることも出来るはずです。
物語論を学ぶための書籍
管理人が物語論の面白さに目覚めたのは、これがキッカケでした。
日本映画の絶望的つまらなさを脚本の観点から分析したところなど、うなづきすぎて首が痛くなるほどです。
入門書としては最適。
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続いて、現在の日本の物語研究におけるフロントランナーである橋本陽介によるこの本。
前半では、物語論という研究の歴史的経緯と、理論的基礎を説明し、
後半では、『シン・ゴジラ』や『シュタインズ・ゲート』といった最近作を分析。
広範囲を射程におさめた一冊です。
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さて、ここからは本格的な人文書。
ロラン・バルトは人文学にとって重要人物ですが、彼の美味しい論文が詰まった一冊。
一部、ちょっと翻訳がこなれない日本語になっていて、読みづらくはありますが……
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最後に、物語論のバイブルであるこの一冊。
――なのですが、水声社は長らく刷り直しをしていないらしく、Amazon中古はプレミア価格がつけられている。アホか。お気をつけください。
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