
【味方につけたい1冊】no.4『僕はダ・ヴィンチ』ヨースト・カイザー
今回は、入門レベルの伝記を味方につけます。
なぜ伝記なのか?
書物の王様は何か、と聞かれたらーー多くの人は「百科事典」と言うでしょう。
管理人もそう思います。
しかし時に、「いや、伝記に決まっている!」と叫びたくなる時があります。
管理人の親世代は、どうも子供の頃に伝記を読まされたようで、管理人も父から野口英世の伝記を与えられたことがありました。
しかし、私の世代では、伝記を読むことを奨励されることは無かったと記憶しています。
もともと、野口英世の伝記は、手に障害を負いつつも世界レベルの業績を残した医学者になった、という「立身出世」の物語として、長らく受容されていました。
(社会学に詳しい人は、このあたりのこともご存知かもしれませんね)
しかし、いわゆる”偉人”たちの人生を一般人のロールモデルとすることが無理筋な時代になってきてからは、伝記はそれまでの役割をある程度まで終え、別の機能を探してさまようことになったと言えるでしょう。
それでも、伝記という書物のタイプは、人類が滅亡するまで書かれ続けるでしょう。
ある飛び抜けた特徴を持つ人物がいた、という事実があり、ありとあらゆる資料を使ってその生涯を研究する人物もいて、その成果として伝記が生まれるわけです。
記録、と呼ばれるものの根源的な形態の1つとさえ言えるかもしれません。
伝記に書かれた人物を、自分のロールモデルする、というシンプルな使い方は、それでも、まだまだアリですよね。
もちろん、感慨にふけるとか、その偉人を目指すとか、そういう、酒に酔った脳ミソでもできそうなことはナシ。
せっかく時間を割いて伝記を読むなら、もっとたくさんのものを抜き出したいところです。
一例として、他人の一生を知ることで、自分の一生のプログラムを作ることができます。
もちろん、国も時代も違えば、社会制度も違うので、具体的な参考になることは多くないかもしれない。
それでも、20代の半ばまで下積み仕事、それ以後は独立、40歳までに何回引っ越す、収入源はいつく確保する、など、大まかなプランは、1000年前の人間のものでも参考になることが多いことに気がつきます。
なぜダ・ヴィンチなのか?
伝記はシリーズ物として刊行されていることが多いのですが、全てを読み通そうとしてもキリがないし、伝記読書の最大の効用は、「これだっ!」と言う人物をひとり、あるいは数人見つけ出し、狭く深く知ることで、違う土地・違う時代に生きていた人物の些細な具体的エピソードが、自分自身の生活と地続きであることに気づき、雷に撃たれるような衝撃を受けること、にあります。
そこでオススメするのが、明らかにぶっ飛んでいる人物に手を出すことです。
歴史上、桁外れの偉業を成し遂げた人物、誰か思い浮かびますか?
筆頭は、やはり、レオナルド・ダ・ヴィンチでしょうね。
1452年生まれ、1519年没、ルネサンスの時代に「万能の天才」という称号をほしいままにした、全人類の歴史上屈指の人物。
彼を味方につけられたら、どれほど心強いでしょう……!
しかし、どうやってダ・ヴィンチを私たちの味方につけたらいいでしょうか?
どう味方につける?
最初の手順は、初学者のために書かれた伝記を読む、というのが、具体的な第一歩となります。
ダ・ヴィンチ級になると、その手の本はたくさん出版されているのですが、
日本の入門書はヴィジュアル面を強調しすぎて、絵画ばかりを取り上げ、ダ・ヴィンチの経歴紹介がおろそかになっていたり、そもそも紙面のデザインがひどく散らかって、眼にうるさいものが多いです。
むしろ、翻訳モノの、テキスト多め、紙面デザインはごくごくシンプルなものが、結果的にダ・ヴィンチという人物の人間像をつかみやすい。
そこで推薦したいのが、オランダ人研究者ヨースト・カイザーが文章を書いた、
『僕はダ・ヴィンチ』です。
原題は『This is Da Vinci』で、僕、という一人称が児童向けな印象を与えるかもしれませんが、いや、これは大人にこそ手にとってほしい、大人の頭脳にちょうどいいレベルの記述になっています。
それに、この本の大切なポイントがもう1つ。
長きに渡ってささやかれ、『ダ・ヴィンチ・コード』のおかげで全世界にばら撒かれてしまったオカルティックな陰謀説、そして「暗号が隠されているのだ」という前提での絵解きが、全く無い。
余計なエンタメ性は皆無。実情だけ充分です。
どこを読めばいい?
メモ魔だったこと
伝記には、その人の私生活が書かれているものです。
だから、どんな天才の伝記を開いても、どこかに必ず、自分の生活と地続きの部分が見つかります。特に注目したいのは、その偉人の習慣です。
ダ・ヴィンチは、恐ろしいくらいのメモ魔でした。本書ではそれが、最初のページで提示されていて、内容が進むにつれてその詳細が明らかにされます。
すると、以下のことがわかります。
・レオナルドの父ピエーロは公証人で、文書を書き、残すことが仕事だった。これが息子レオナルドに影響した。筆だけではなく、ペンは彼にとって慣れ親しんだ道具だった。
・筆を持って油彩画を書けない時期にも、ペンでノートに書くことだけは生涯やめなかった。そこに残された知見が、レオナルドの死後、ヨーロッパ中に広まった。
そこで、読者は次のように考えを拡げることができますよね。
・ペンと紙を持ち歩けば、いつでも記録できるから、アイディアが忘れられるのを防ぐことができる。(当たり前のことだけど、実際にやってる人は極めて稀。)
・気づいたことを忘れずに、ノートを見て思い出し、実行してみると、そこから新たな知見が生まれるかもしれない。
・彼があらゆる分野について知識を持ち、自由に思考できたのは、メモをすることで「自分は何をしてきて、何をしてこなかったのか」を把握できたからではないか。
などなど。いくらでもいけるでしょう。
伝記に書かれた人物の習慣を獲得すること。これが伝記から得られる最重要ポイントの1つです。
ある種のノマドワーカーだったこと
今度は彼の人生をはるか上から見下ろしてみましょう。文学全集などでも作家の経歴が巻末に載っていますが、実はこれこそ書物のオイシイところでして、その人がどのように土地を、つまり空間を移動したのか、これは確認する価値があるポイントです。
本の終盤、こんな記述があります。
彼にとって唯一の関心事は、どこにでも自由に動ける身であることだけだったのだ。
芸術激戦区フィレンツェでキャリアを開始したレオナルドは、ブルーオーシャンを求めてミラノで工房を立てます。そこで18年ほど仕事をするわけですが、何と侵攻してきたフランスのルイ12世から作品の注文を受ける。
その後はマントバ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、またフィレンツェ、そして最後はイタリアを出てフランスへ。
あらゆる分野に詳しく、そのポイントを権力者に売り込み、実際、引く手あまただった。
今で言うと、優秀なフリーのデザイナーがポートフォリオを会社に持ち込み仕事をもらう、といったたとえ話にもできそうです。
ダ・ヴィンチがノマドワーカー、と言ったら、怒る人もいるかもしれませんね。
それに、これができたのは、彼が若くして師匠のヴェロッキオを超えかねないほど優秀だったからです。
でも、特定の君主、特定の土地に人生を捧げることなく、自由に移動し生涯現役で活動したというモデルは、現代に通ずるものだと言って間違いはありません。
(いや厳密には、ヨーロッパの知識人は優れた人に限って色々な国を移動しているのですが。この辺りは改めて書くことにしましょう。)
入門書のあとは?
本書を読み終えたあとは、もっと詳しい評伝を読んでみましょう。
やたらと有名なおかげで、探せばいくらでも出てきます。
注目するポイントも、作品の詳細、遺されたノートのその後の運命、彼にまつわる伝説はどこまで真実で、どれが疑わしいのか……
読む本によっては、『僕はダ・ヴィンチ』の記述がひっくり返ることもあるでしょう。
最近は「広く浅く」「広く深く」な知的生活がもてはやされますが、
「狭く深く」という読書はとても大切です。
むしろこんな時代の中だからこそ、狭い範囲を深く知っている、ということの価値が上がっているとも言えますし、
知的「広さ」が一体なんなのかを知り、獲得するためには、「狭さ」の追求は不可避です。
個別の「狭さ」の実態を味わい、噛みしめなければ、「広さ」の正体はわからないままです。
さて、ダ・ヴィンチのあとは、誰がいいでしょうね……
ちなみに、ダ・ヴィンチの手記は岩波文庫から出ている翻訳があるのですが、
新しく刷ったものでも杉浦明平が旧漢字で訳した小さい活字を使っているので、愉快な読書体験にはならない。岩波文庫はいい加減、改版するか新訳して、可読性の劣悪なタイトルを改善していくべき。