概念が再定義されるタイミングはここだ

ハードウェアとソフトウェア、という概念が登場したその時、この2つの性質を同時に持っているものとして、人が再認識できるようになったものがある。
書物=紙の本だ。

……という話を、私はよく引き合いに出すのですが、これはどこかからの引用ではなくて、私がある日思いついた例です。
ハード・ソフト、という存在形式にばかり注目してしまう思考状態を、いったん抜け出す方法として、そのどちらでもあるものに書物があるよ、と提示したいときの文脈で語ります。

なかなか面白い話だと思いませんか?
ハードとソフト、という考え方(分け方)を知ると、多少無理矢理に、身の回りのものを、ハードかソフトか、という区分で分けられるようになります。
たとえ機械に関係なくてもです。
ジャムの瓶がビンがハードなら、ジャムそのものはソフトに当たります。

同時に、書物と同じように、両方の性質を持つものも発見できるはずです。楽器は、ハードかつソフトです。もちろん、演奏者の記憶している演奏法や、楽譜をソフトに入れることもできますが。

ブランド物のバッグもそう。
物を運ぶという意味ではハードだけど、ブランドの記号性を周囲にアピールする機能はソフトウェア的です。

書物は、持ち運べる、インク定着の土台である、物質である、という点でハードですが、文字で書かれた文章はソフトウェア。
これ、何が起こっているかというと、新しい概念が出現したことで、従来あった概念が再定義されている、ということです。

そこで、1つの仮説。
新概念が生まれると、従来の概念の中に、再定義が可能になるものがある。

上の仮説は、数学的に証明する必要は別にありません。物事の傾向として、かなりのことに認められるなら、それで結構。大きな収穫です。
この傾向があると分かれば、これから新しく転換できる物事を発見しやすくなるのでは?
と、そう考えました。

さて、何か個別の前例がないかな……と考えていますと、ああ、ありました!
すぐに浮かんだものが2つあります。ご紹介しましょう。

例1:シュルレアリスムの先駆者たち

シュルレアリスムは、その前身となる芸術運動ダダを批判的に受けつぎ、今もなおアートの世界に影響を与え続けている芸術運動です。
フランスのアンドレ・ブルトンが1924年に発表した文書『シュルレアリスム宣言』を機に明確な運動となりました。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいていて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。

ブルトンはこの文章の中で、シュルレアリスムという語を(まあまあ曖昧に)定義するとともに、「先駆者たち」の名前を挙げています。

それぞれの成果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。(…)
ポーは冒険においてシュルレアリストである。
ボードレールは冒険においてシュルレアリストである。
ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである。

ブルトンがリストアップするまで、特に共通点もないバラバラな芸術家と思われていた人々が、新概念「シュルレアリスム」によって、共通点を見出され、同じ集合の中に入る。
(でも正直、私は、「ほんとにこの人は先駆者と言えるかな?」と、釈然としないものがあるのですが。)

この現象を、別のケースから見抜いたのが、アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスでした。

例2:ボルヘスが語る、カフカの出現

ボルヘスは、小説家フランツ・カフカの出現が、というより、カフカの作品を読むことが、読者の認識を変えてしまうと言います。

〔カフカ〕のことを初めのうちは、伝説の鳥不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼をよく知るにつれ、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がした(…)。わたしの間違いでなければ、わたしが取り上げた異質のテクスト〔ゼノン、韓愈、キルケゴール、ブラウニングなどのテクスト〕は、どれもカフカの作品に似ている。わたしの間違いでなければ、テクスト同士は必ずしも似ていないが、これは重要な事実である。程度の差こそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現れているが、カフカが作品を書いていなかったら、我々はその事実に気付かないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。
(…)
ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。

ボルヘス「カフカとその先駆者たち」(『異端審問』)

全く同じ現象ですね。
ある社会の中で新概念が生まれると、事後的にその先駆者がいたことになる。

概念の再定義が起こるタイミングはここ

結論を言うと、
「新概念が生まれると、従来の概念の中に、再定義が可能になるものがある。」
これは、かなり一般的な傾向と言えます。

(例えば、スマホが普及してから、ガラケー(フィーチャーフォン)の良さがわかって、新品のガラケーを契約する人も出てきた。)

逆に、
「概念の再定義が起こった場合、そこには新概念の力が働いている。」
とも言えます。

(これどんな例がいいんだろ……
腕時計が製品化されたのは、19世紀のドイツの砲兵が、砲撃のタイミングを計るために懐中時計を腕に巻いていたこと、とか……?)

私たちが、すでに存在している事実から、何か新しいアイディアを見つけたいとき、この考え方が使えるのでは、と思い、いま色々と実践しています。

余談ですが、

もともと、hardwareは金属製品を意味するようですが、コンピューターが普及し出した何処かのタイミングで、エンジニアたちが機械部分のことをこう呼んだことが、今日の意味の由来だそうな。

私がこの2つの概念を知ったのは、小学生でPlayStationをいとこからもらった時。
ソフトだけでもハードだけでも役に立たない、そんな存在形式がこの世にあるのか、と驚いたものです。
それまで遊んでいたおもちゃは、ハード即ソフトでしたからね。

EDITED BY

森大那

1993年東京都出身。作家・デザイナー。早稲田大学文化構想学部文藝ジャーナリズム論系卒業。2016年に文芸誌『新奇蹟』を創刊、2019年まで全11巻に小説・詩・批評を執筆。2018年にウェブサイト&プロジェクト『彗星読書倶楽部』を開始。2020年に合同会社彗星通商を設立。

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