『新しい文学の教科書』序文

(このシリーズは、最終的なパッケージを書籍版にする予定のため、普通なら「本稿」のように書くべき部分を「本書」と書いています。)

文学という単語への誤解

 「文学」という単語は、誤解されている言葉です。
 世の中の多くの人は、「文学」と聞けば、高尚な、分かりにくい小説のことだ、と考えます。
 しかし、文学の語源である英単語literatureの、さらに語源であるラテン語litteratura、そして、その西洋由来の概念を日本語化するために中国の文献から引き抜かれた文学という語、それらはどれも、本来「書物」「文字で書かれたもの」「本を使った学芸全般」を表したのです。


 この定義をそのまま今日に導入するなら、文字を使った私たちの営みは、全て文学と呼ばれるべきでしょう。
 事実、法律も、数学も、言葉や記号を利用する領域は、何かしらの意味で「文学」の性質が動作することで成立しているのです。
 けれど、今の私たちは、文学といえば小説、もっと意味を広げても、せいぜい詩や戯曲や批評を入れるくらいで、「文学」の意味を制限しています。これはこれで、理解できることです。これらの文章は、ビジネスの企画書や報告書、企業の決算書、法律、日々の新聞記事とは違い、価値のあるなしが読む人によって大きく違うからです。
 それゆえに、文学と呼ばれる書物を毛嫌いする人がいるのも事実です。
 一方、文学の世界に耽溺する人々は、どの地域、どの世代にも必ずいます。
 この両者があるからこそ、人はつい「文学」を読むことを高尚な趣味だとだけ考えてしまいます。
 では、文学は余暇に消費するためのものなのかと言うと、これは全く違います。過去の歴史上では当然のことながら、アートの在り方や情報発信手段が多様化した現代においても、「文学」は揺るがない政治的・社会的権威を持ち続けています。


 日本だと実感が湧きませんが、芸術領域全般の中でも特に詩が位の高い表現形式であるとする認識は、世界の多くの文化圏の上流階級において共通認識となっているのです。
 2021年初頭のアメリカの、ジョー・バイデン大統領就任式で、アフリカ系アメリカ人である22歳の詩人アマンダ・ゴーマンが『The Hill We Climb』を朗読したことは話題になりました。大統領就任式で詩人が詩を朗読することは恒例行事ではなく、1961年のジョン・F・ケネディ大統領就任式でロバート・フロストが担当して以来、ゴーマンで5人目なのですが、なぜ散文である就任演説だけで済まさず、自作の韻文を朗読する詩人を呼ぶのかと言えば、その時代に求められる言葉、そして政権がアピールしたい精神を、ひとつのパッケージとして創り上げる能力を持っているのが詩人であると思われているからです。


 また、アメリカのスター発掘オーディション番組『アメリカン・アイドル』がテレビプログラムとして世界中に輸出された結果、アラブ首長国連邦では『Millions’ Poet』が放映され、詩を自作し朗読することによって優勝者を決める番組となりました。詩は、ただの娯楽ではありません。ひとつの作品、ひとつの表現が、社会の価値観を揺るがしてしまうと受け取られることさえあります。2010年、この番組で女性として初めてファイナリストに選出された詩人ヒッサ・ヒラル(Hissa Hilal)は、挑戦的な風刺詩を朗読したために殺害予告を受けたほどです。


 さらに付け加えるならば、日本においては天皇が主催する歌会「歌御会」が開催され、良くも悪くも、天皇がメッセージを公的に発信する数少ない機会となっています。
 こうして世の中を見渡すと、「文学」が物好きの娯楽であるという見方自体、実は、ある限定された時代の、ある一部地域でしか共有されていないとも考えられるのです。

 言語芸術はなぜ力を持つのか

 文学は、ただの娯楽だと思われがちでありながら、社会に影響力を持ち続けています。
 その真の理由は、おそらく単純でしょう。後世に残るからです。
 他のあらゆるメディアとは違い、書物は、保存が効くのです。
 また、短歌や詩の一節、小説や評論の断片部分などは、本を手元に置かなくても、記憶すればすぐに思い出せる場合がたくさんあります。
 何より、イメージ=心象とは、持ち運びの簡単なもので、記憶の中でそう簡単には劣化しないものなので、それが人格形成に与える影響は、その人の年齢にかかわらず甚大です。


 だからこそ、読む人に強い情動を起こす文学は、好んで読まれ、政治の道具として扱われ、価値観の戦いのフィールドにもなり、時に反発で死者さえ出るものにもなるのです。


 さて、ここまで私が使ってきた「文学」という言葉は、これまでの話からもわかるように、小説や詩や評論を扱っているわけですから、本来は「文芸」「文芸作品」と呼ぶべきでしょう。しかし、本書では話をわかりやすくするため、あえて文芸=言語芸術一般を文学と呼ぶことにします。

「新しい文学の教科書」が必要な理由

 この本は、現在の日本において、文学作品が、極めて制限された読み方でのみ受容されていると考え、そこから読者を解放するために、文学作品の新たな楽しみ方・使い方を提示するものです。


 中学校や高校では、文学作品の定説を教えてくれるだけで、この本に書いた、学問の世界では常識的な読解テクニックを教えてくれません。
 また、「読解の正確さ・解釈のあり方が、社会のあり方を決め、時に人の命さえ奪いもする」という事実を教えてもくれません。
 物語の面白さ、共感を誘う文章ばかりが読みどころであると思い込んでしまうと、それ以外の読み方があるなどとは想像すらできなくなってしまいます。


 例えば、20世紀の後半、物語の面白さを全く感じられない小説が大量に出現しました。なぜか? 物語というものが戦争を引き起こす道具として利用されたことを知っている作家たちは、素直に物語を作ることが出来なかったのです。だからこそ、クライマックスに向けて盛り上がるような筋書きを意図的に排除した高度な小説や演劇を書き残しました。


 また、似たような現象は詩の世界にも起こりました。20世紀初頭から、韻文を辞め、新たな言葉の使い方を開拓する試みはあったのですが、戦後10年ほどが経った頃に、戦前には無かった傾向の詩が世界中で生み出されます。もちろん日本も例外ではありませんでした。戦争を引き起こした時代・世代の言葉と戦うような詩を作る必要を、多くの詩人が感じていたのです。


 こうした作品は、娯楽として読んでは、意味が全くわからないものです。だからこそ、生み出された文脈をセットで説明する必要があります。
 しかし、文脈を前提知識として知っていなければ成立しない作品が質の高い作品であるのかというと、そうとも言えません。言語芸術であるなら、それが生まれた文脈から独立しても大きな価値を持っていてしかるべきでしょう。
 時代を超えて読まれる文学作品は、いつだって、読まれるその時代特有の問題意識を通した目線で読まれ、それ以前には全く気付けなかった潜在的なポイントが発見されるものなのです。


 娯楽的観点からは決して読み取れない部分、つまり、私たちが普段は思いつかないような、あらゆる多様な姿を持つ言葉の力、言葉の作用、言葉の機能を、自力で見つけ出す、その能力を、私たちは体得する必要があります。
 今こそ、文学の読み方のアップデートが必要なのです。

 文学の専門知と、読書会の在野知が交差する

 こうした本を私が書こうと思った理由は、私が専門知と在野知を自覚的に観察している人間だからです。


 私にとって、大学で人文学、特に文学・哲学・批評を学んだことこそが、その後の人生を決定しました。歴史上最強レベルの知性が発見した事実、生み出した理論、提示した見方。それは、まだまだ社会に浸透しているとは言えません。もちろんそれは、人々の常識を覆す見方であるがゆえに、難しい用語を使ったり、長い理路を経ることでしか伝わらない内容であることが一因でもあるのですが、この本では、その一部を、なるべく平易な言葉で伝えようとしています。


 しかし、同じような努力を続けている物書きは大勢います。
 私という人間が珍しいのは、読書好きが集まり語り合う「読書会」という場を自分で作っているからです。
 読書会を始めた大学生の頃から数えると、開催歴は8年にもなります。
 その中では、あらゆる経歴、あらゆる職業、あらゆる感性を持った人々が、たったひとつ、同じ本を読んでいるという1点を共通項に、語り合います。


 自分の意見なんて思いつかないと思っていたけれど、読書会に参加してなんとか言葉にできた。
 作品に対する第一印象が、他の参加者の意見によって完全に覆された。
 まったく見落としていたポイントに、他人の指摘で初めて気付けた。
 すっかり忘れていた思い出を、話しながら思い出した。
 どうしても作品の内容や、会で出たにシンパシーを抱けなかった、けれど、見事な視点であるとは思った。


 こうした体験は、ひとりの読書ではできません。予想外の考え方で、他者から切り込まれること。それは、教員 – 生徒(学生)の、あるいは、書物 – 読者の、教える – 教えられる関係では、どうしても出現し得ない体験なのです。
 「どう読まれるのか」の多様な声が交錯する、読書会を自分で作りながら、新たな知恵、新たな感性が、いかに参加者の中に吸収されてゆくのか、その様子をつぶさに観察し、しかもそこから、新たな書物を作るだけではなく、新たな読書の在り方さえ作り出そうとしている人に、私は、今までに出会ったことがありません。


 大学で学んだことと、読書会を続けてわかったこと。
 この2つが、文学の新しい「読みの広場」を作るのです。

 本書の内容

 これまで、学問のフィールドにおける知識やその蓄積を記した書物は無数に出版されてきました。 
 読書会というイベントも、少しずつ参加者人口が増えています。
 しかし、この2つの領域をつなぐ本は、まだ存在していないのです。
 学者や批評家たちが生み出した、その社会の人間の認識を変えてしまうほどの明察。
 読書会という読書の現場でしか聞き取れない、読み手の声、創造性、洞察。
 この2つがバランスよく融合された読書が可能なのだとしたら、それはこれまでにないほど知的好奇心を掻き立てる読書であるに違いありません。


 実を言えば、本書に書かれていることの多くは、人文系の学問分野では広く知られていることです。プロの書き手にとっては基礎レベルのことですらあります。
 しかし、そうした基礎レベルの知識は、大量の書物がある環境と、その中でも優れた本がどれなのかを教えてくれる情報網と、学問のプロによる数年間の訓練を受けて身につくものです。本を読むことについての理論的訓練を受けていない一般読者は、全くの初耳であることばかりでしょう。


 私が作る『新しい文学の教科書』とは、新しい理論や視点を提案するものではなく、「今まで専門家の間でだけ知られていた知見を、新しい、易しい言葉で言い換え、一般読者にも使えるようにすることを目的とした教科書を作ります」ということなのです。
 もちろん、私の創意工夫や、私が発明した言葉も出てくるのですが、ある意味ではそれらも、既存の考え方を誰よりもわかりやすく整理したものと言えなくはないのです。

 それでは、本書の構成を見ていきましょう。

 

第1章:「文学」の新しい見方

 第1章では、文学というものをこれまで以上に鮮明に捉えるため、より深く考察して見ましょう。
 「文学とは何か」という疑問を抱く人はたくさんいますが、その疑問はそもそも答えがはっきりしていて、大して重要な問いではありません(この疑問の答えは、すでに書きましたね)。
 大切なのは、「文学なるものは、私たちにどう作用しているのか」です。
 また、文学の読まれ方の変遷も確認します。これにより、私たちの認識が、読解力が、そして想像力が、いかにその時々の常識に縛られて不自由になっているかが分かります。

 ・文学の可能性に、多くの人は気づいていない
 ・文学は、言語の実験場だ
 ・読み方の変化(答え探し→「自由」な読み方→答え作りへ)
 ・見落とされてきたもの1:文体の思考
 ・見落とされてきたもの2:理論を使って読むこと

第2章 書物の現場主義

 第2章では、私が八年間の読書会経験から生み出した、「書物の現場主義」という考え方をお話しします。
 私の大学の指導教授であった小説家の堀江敏幸との出会いが、『彗星読書倶楽部』というプロジェクトを生み出し、そこで行なった幾たびもの読書会から生まれた、人間と書物との関わり方の体系がここに書かれています。

・書物の現場主義
・読みの現場
・書きの現場
・語りの現場
・ゼロの立場
・友人と行なった、6時間の読書会

第3章 読解の理論

第3章 読解の理論
 第3章では、理論を使って文学作品を読んでみましょう。
 「自由に読めばいい」「すでにある枠組みを使って読んだら、自由な発想ができない」という考えを持つ人はどういうわけか後を絶ちませんが、これは初歩的な誤解です。枠組みを使わず好き勝手に読んでいる人は、皆同じような考え方にたどり着いて終わるか、深く読み込めず、あるいは作品と別の何かとの新たな関係が見出せず、表面だけを味わって終わると相場が決まっています。
 それは言わば、お手本無しで物作りをするのと同じです。目分量の素人料理と言ってもいい。調味料を適当に入れたら、運良くその時だけは美味しく作れたような気がしても、次に同じ味を作ることはできません。王道の調理法を実行することが、味の質を保証するのは、誰でも納得するはずです。
 真に独創的な読書ができる人は、理論を通した読書をマスターしている人だけなのです。
 本書では、人文学の世界では欠かせないキーワードを5つピックアップし、わかりやすく解説した上で、なぜその理論が重要であるのかもしっかりと説明します。
 この章を読むだけで、あなたの今後の人生における読書は全く変わることになります。

・作者の死…………唯一の答えはない
・異化………………退屈な日常を一瞬で終わらせる
・テマティスム……意図的バイアスが作品の潜在能力を叩き起こす
・言語相対論………言葉は世界の分かり方そのもの
・記号論……………「良い文章」は2種類ある コードとコンテクスト

第4章 手元の本を自在に読みこなす基本装備5選

第4章では、学術のフィールドから生まれた理論というよりも、より自由に活用できる思考テクニックをご紹介します。これをマスターすれば、読書に限らず、芸術鑑賞はもちろん、日々の思考のためのツールとして一生涯使い続けられるものになるはずです。
・マーキング
・断片化
・具体 抽象
・分解 再構築
・部分 全体

 本書によって、読者は、目の前の書物を今までよりはるかに自由自在に扱う技術を得ることが出来ます。
 もしかすると、それは、新しい道に迷い込むことであるのかもしれません。
 しかし、今まで存在すら気付かなかった道を見出すことは、今までの迷いを解決するブレイクスルーである可能性が高いとも言えます。
 新たな領域へ、一緒に飛び込んでみましょう。

(第1章に続く)

EDITED BY

森大那

1993年東京都出身。作家・デザイナー。早稲田大学文化構想学部文藝ジャーナリズム論系卒業。2016年に文芸誌『新奇蹟』を創刊、2019年まで全11巻に小説・詩・批評を執筆。2018年にウェブサイト&プロジェクト『彗星読書倶楽部』を開始。2020年に合同会社彗星通商を設立。

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