ノート・テイキングの思想
「ノート・テイキング・マニュアルver.1」には、書きたかったけど書けなかったことがたくさんありました。
それは、ノート、という道具から産まれる思想があるのだ、ということです。
正確に書くと、これは管理人の思想なのではなくて、
歴史上繰り返されてきた事実に過ぎません。
その一部をここに記しておきます。
読む人によっては、かなり実用的なものとも受け取れるでしょう。お使いください。
ノートこそが、知の拠点だ。
知の拠点、というと、図書館を評する言葉として使われる印象です。
しかし、「拠点」なるものが、建物のスケールに限られるわけじゃありません。
持ち運べるサイズの「拠点」だって、考えられます。
ノートは、記録のためだけ道具ではなく、
思想が生まれる現場でもあります。
記録していく最中に、記録以上のもの、つまり新たな思考が生まれることはザラです。
多くのノートは、パーソナルでプライヴェートなものです。だから、記録される情報をコントロールしやすい(会社の業務日誌のような、パブリックな、他人と共有されるのノートでは、他人のルールでしかコントロールできない)。
ということは、意識せぬまま、未知のコントロール方法に気付ける確率が高くなるということです。
だからこそノートは、個人的な知の拠点なのです。
以下、横道です。
人間は、いつも忘却と戦ってきた生き物です。
もちろん、忘却はいつも人間の敵であるわけではなく、生活の中では私たちの味方でもありますね。
世間では、ある事柄をしっかりと記憶することが正しいとされ、忘却に対してはネガティヴな言説が溢れかえっています。
しかし、忘却に関する様々な言説が出揃った結果、
そろそろ価値観を逆転させるべき時期に来ています。
忘却こそが、脳の記憶機能の基本、と考えると、どうか。
決して忘れてはないらない事柄は記憶し、常に思い出す必要はない事柄は外部記憶装置に記録し、記憶していては精神的危険がある事柄は忘却する。
(逆にいうと、何度繰り返し聞いても忘れてしまうことは、自分に必要のないことである可能性が高い。)
情報洪水が常時起こっている現代だからこそ、この考え方は必要でしょう。
(この視点から世界を見ると、見方がガラッと変わってしまうので、詳しくはいつか改めて書きますね。)
ノートとペンは、人間と世界のインターフェイスだ。
自分と、自分の外にあるもの=「世界」。
ひとりの人間がこの広大な「世界」を理解するためには、そのあいだに、何らかの意味での知(知恵)が必要です。
これはかなり単純な図式ですが、悪くはないでしょうし、私たちは日常生活で、この程度のレベルで世界を感知しています。
広い意味での知は、自分と世界のあいだにあるものです。
その「知」を記録し、産み出して来たのは、歴史上、ずっと、ノートだったのです。
ノートは、人間と世界のあいだにある、知の境界面=インターフェイスです。
さて以下も横道。
「アウトプットこそがインプット」、と最近、誰かが声高に言っているそうですが、これは「ちょい待ち」でして、クソどうでもいい情報やニセ哲学を垂れ流す連中を生み出しかねない考え方です。
より誠実で、より良心的、そしてなにより現実的な考え方は、こうです。
納得することがインプットだ。
知性、とは、その人が触れた情報量のことではありません。
ましてや、触れた情報について気の利いた一言を言える能力のことでもありません。
知性、とは、納得できた事柄の数々から生まれる人格のことです。
「納得」というのは、「理解以上に認識すること、つまり、記憶しただけではなく、自らの手でその情報を加工できること」くらいの意味で持ち出した単語です。
異論はあるでしょう。
「納得」を「実感」だとイコールで読んだとしたら、「理解できても実感はできない」事がたくさん見つかるはずですから。
だから、上の「納得」を、「理解」に変えるのもokだと思います。
人間の武器は、頭脳と体力の2つだけだ。
これはあまりうるさく語りません。
結局のところ知的能力とは……というより、その人が「生き延びる」のに必要なのは、
頭脳と体力、このふたつです。
つまり人間にとって、道具なし=丸腰の状態で使えるものはこのふたつだけであり、
道具をうまく使えるかどうかは、このふたつの質が決める、ということです。
頭脳は、まあ解説不要でしょう。
語学など、丸腰で使える能力の代表格ですね。
体力は、頭脳と同じくらい重要です。
状況を変えるために思い切ったことをする、習慣から外れる行動をするためには、自分の体力のピークと限界がどのように訪れるのか、把握していないと、とても痛い目に遭います。
(ニーチェ、サミュエル・ベケット、ヴァージニア・ウルフ、南方熊楠を筆頭に、人類史上最強レベルの頭脳の持ち主が、そろいもそろって散歩好き、というより有酸素運動のバケモノだったという事実!)
つまり何が言いたいかというとーー
ノートの潜在能力は、使う人の頭脳と体力で決まるのです。
頭脳が冴えていれば、
ノート1冊・ペン1本だけを武器にして、
経済の動きをクリアに把握したり、
政治家が使った言葉の裏の意味を読み解いたり、
市販の手帳も使わずに完璧なスケジュール管理ができる。
体力を把握し育てることができれば、
取材のために別の都道府県や国にも場所の移動ができるし、
情報の整理を淡々とこなすこともできる。(←これが体力の問題なのだと気づかない人は多い。)
ノートという道具は、過小評価されている
ノートという道具は、おそらく、世間で最も過小評価されている道具のひとつでしょう。
事務的な記録のためにしか使わない人も多いでしょうし、
学校で使って以来、日常では使わない、という人も、決して多くないと思います。
しかし歴史をよくよく掘り起こすと、
人間の知的作業(すなわち記録と創造)に不可欠なものだったことが痛感できる。
ノートについて語れることはいくらでもあるのでしょう。
管理人は、小説家や詩人の生原稿をノートとして読むことの重要性にこの頃気づきました。
研究者の視点ではなく、
文字の選び方・文字の大きさ・罫線の使い方・どれほど太い(細い)線で書いたのかetc
そんな特徴に、書き手独自の思考の痕跡があると思うんですね。
それに、作家や思想家の文学全集を読むと、未発表の原稿やノートの類が実に面白い。
そこにこそ、その人の生きた姿、確立されたイメージから外れる呼吸した生身のその人を感じられる。
常に情報が入って来てしまうモバイル機器は、
現代社会の生活や仕事に不可欠なものではあっても、
紙とペンがある限りは、
真の知的道具の座におさまることはないのです。
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