【美術館】松濤美術館『涯ノ詩聲 吉増剛造展』を観てきた
画家とか写真家じゃない。
詩人の展覧会なんです。
何を展示するのかって?
直筆原稿くらいのものじゃないかって?
あるいは、愛用の万年筆とかくらい?
まあ、普通の詩人だったら、展示するものは、それくらいしか無いでしょう。
しかし展示室には、
・一面がビッシリと細かい文字で埋め尽くされた紙
・ボロボロの手帳
・多重露光の写真
・赤や緑の絵の具で塗りたくられ、文字が読み取れない紙の巻物
などなど、「これは何なの?」と訊かれても、ちょっとすぐには答えられないものばかり展示されている。
そう、吉増剛造は、普通じゃない。
吉増剛造、という名前で調べると、人名とともに、初期の詩集『出発』(1964年)『黄金詩篇』(70年)『頭脳の塔』(71年)あたりが出てくるはず。
でも、今の吉増剛造は、70年代とはまったく違う詩人、いや、まったく違う生き物なんです。
ある時代まで、詩人の仕事は、原稿用紙のマス目に従って文字を書くことだった。
(今はキーボードを打つことか。)
吉増剛造は、詩人の仕事を、それだけに限定していない。
テープレコーダーにメモのように独り言を録音する。
別々の国の風景を1枚の写真の中で重ね合わせる。
銅板に文字を刻印する。
目隠しをして、文字を書いた紙に絵の具を塗る。
ひたすら、吉本隆明の詩を書き写す。
「それのどこが詩人の仕事なのか」、って?
それは質問の仕方が間違っている。
彼は、「詩人」のすべきことを拡張しているのだから。
「そんなの誰にでもできそうだし、つまらない「げんだいあーと」のお仲間じゃないか」、と?
そう思えるかもしれない。しかし会場で実物を見てもらえれば、常人の集中力ではとてもではないが作り得ない創作物であることがわかるし、常に新たな日本語の運用方法を探り・造り続けてきた吉増剛造がやるからこそ、「げんだいあーと」の内輪ゲームとは金輪際かかわりのない活動であり続けている。
彼の活動についてはいくらでも語れるから、今回は次のことを述べるだけにしておくとしましょう。
ここ数年の、国立近代美術館をはじめとする吉増剛造展でわかるのは、文字の表現(あるいは文字を使わない言葉の表現)の可能性が、常識的ではないスピードで拡張されているということです。
例えばこんな風に。
・『裸のメモ』を代表とする、判読できる限界ギリギリの文字の集積は、可読性を考慮しない言語芸術となることで、物体としての文字、という、文字の隠れた側面を教えてくれる。
これはつまり、意味伝達の機能を担わされるだけとなった文字から、意味伝達機能を喪失させたときに初めて見える相貌がある、ということです。
管理人は、ここに、小さなものが密集している気味の悪さ、文字が人間のためには機能せず自ら独立しているという人間と文字の距離感を感じますが、これは、吉増剛造の創作物以外では感じたことのない経験です。
・2017年に作られた『火の刺繍』という作品(と呼ぶべきか否か?)。紙を巻物のようにつなぎ合わせたものなのですが、もはや細密文字は絵の具の色に潰されて確認すらできず、貝やクリアファイル(のように見えるもの)が紙の上に貼り付けられている。書かれた文字が色彩に侵食され、シワシワバリバリになった紙の上で、書いてあったのかどうかもよくわからない状態になっている。ツルツル真っ白のキレイな紙の上ではなく、文字が定着する媒体の荒れた立体感を否応なしに鑑賞者に感じさせつつ、鮮烈な赤色の奔流が視覚を刺激する。
会期は9月24日まで。
もう一度――いや2回は行きたいかな。
今月はこの展覧会について何度か書くことになるでしょう。