
内田也哉子さんの弔辞の文章技術を解説します
今年3月17日に亡くなった内田裕也のお別れの会「内田裕也 Rock’n Roll葬」は話題になりましたね。
その中でもひときわ注目されたのが、樹木希林・内田裕也夫妻の長女、内田也哉子さんの弔辞でした。
「Fuckin’ Yuya Uchida, don’t rest in peace, just Rock’nRoll!!」という結びの言葉がテレビに取り上げられたり、SNS上でも絶賛されていました。
内田也哉子さんの弔辞がかっこよすぎて聞き入ってしまった
— とろろみそ (@tororopical) April 3, 2019
故・内田裕也さんの長女・也哉子、謝辞ってゆうニュース見たけど、小説聞いてるみたいで語彙力すごい
— 🌳(∵) ܾ ܾ 𖥧𓇣𖦥𖥧𖥣 (@sushigod_tvxq) April 3, 2019
https://twitter.com/nakaccchi/status/1113363478230626304
確かに、普通の弔辞ではないどころか、小説でもなかなかお目にかからないタイプの文章でした。
でも、これがなぜ「スゴい」のか、分析した人はいないようです。
そんなわけで今回は、内田也哉子さんの弔辞の文章技術を解説します。
実はこの弔辞は、ある2つの文章技術を持っている人だけに書ける文章なのです。
真似をするのは簡単ではありませんが、詳しく解説しますので、この記事を読んだ人の文章力が上がることも期待できますよ。
全文を載せると長くなるので、ひとまず下をどうぞ。
[blogcard url=”https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201904030000506.html”]
(日刊スポーツの記事って一定期間すると消えたりするんでしょうか? でもこれが消えても全文はネットのどこかに残ると思います)
余談ですが、これに比べると、樹木希林の葬式時の挨拶は、同じく也哉子さんによるものですけど、温度がだいぶ違いますね。
[blogcard url=”https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/09/30/kiji/20180930s00041000144000c.html”]
この弔辞の特徴
結論から先に書きます。
内田さんの弔辞は、言葉の2つの基礎技術が土台になっています。
1:自明と思われていることを、自明ではないことに塗り替える。
2:文脈が先にありそれが言葉に変換されるのではなく、言葉が文脈を作り出す。
でもこれだけじゃ何のことやらわからないですよね。
(全文を読んで「そうそう、確かにこの2つだよね!」と思った人がいたら、今の段階で相当な文章力が付いてますよ!)
この2つの考え方が、弔辞の中で、3つの注目すべきポイントを生み出しています。
その3つのポイントを解説した上で、もう一度ここに戻ってきます。
おっとその前に。内田さんが弔辞を書くにあたって、2つの避けられない前提があったはずです。
・内田裕也という人物を、言葉で表現せねばならない。
・内田裕也という人物は、誰からも距離のある人物だった。
内田也哉子さんは、上の前提を、どのような手法で語ったのでしょうかーー?
それでは、弔辞から引用しながら、具体的に内田さんが駆使した文章技術を確認していきましょう。
注目ポイント1:表現切り替えの提示
「私は正直、父をあまりよく知りません。わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。」
これは、弔辞の一番最初の部分。
フツー、と思いましたか?
でも実はここ、内田さんの技術が濃縮されているんですよ。
原文を言い換えて説明します。
「父をあまりよく知りません」、と言った後に、「いやその表現は正確ではなくて、わかり得ない、と言う方が自分の実感により近いのかもしれません」と、表現方法を切り替えているんです。
これは、文章を書く人ならではの理知的な思考です。
よくある表現では伝えられない、だから、別の表現を塗り足して、話を広げてゆく。
「私は父をよく知らない」という言葉は、誰でも使える。しかしそれでは、ありきたりな言葉で表現できないものが、言えないままになってしまう。
だから、「誰にでも言える言葉では説明できない感情があるのだ」、と聴衆に伝えるために、「使う表現を変えます、そうすることで、父の特殊性をようやく伝えられるのです」と、暗に宣言しているわけですね。
文章を書くのが好きな人は、上の引用文をマネて作文するだけで、
「今から当たり前じゃない話が始まるぞ」という前振りをスマートに作れます。試してみてください。
注目ポイント2:意味を加える
「私の知りうる裕也は、いつ噴火するか分からない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、すがすがしく無垢(むく)な存在でもありました。」
さてここで問題……この表現は、娘である内田さんの率直な思いを言葉に写し取ったもの、と言うべきなのでしょうか?
ご本人にとっては、たぶん、そうでしょう。
しかし、内田裕也と面識のない人にとっては、「すがすがしく無垢な存在」であったのかどうか、なんてこと、わかりません。
言葉で内田裕也を表現せねばならない今、書き手の実感がどうだったのか、実際の内田裕也がどうだったのかは、問題ではありません。
理由は簡単で、言葉で現実をトレースすることは原理的に絶対不可能だからです。
では何をすべきで、何が大切なのか?
それは、文章上における内田裕也というキャラクターをいかに作り上げるか、なのです。
物理世界では、火山と野花に似たところなんかありませんよね。
でも人間は、上のような文章を読むと、火山のようであり、同時に、野花のようでもある、という状態を頭の中に作り上げてしまうのです。
一言で言えば、
複数の意味を続けて提示すると、(言葉を聞く人の脳の中で)必ず融合する
ということです。
極端な出来事や経験、人の性格、単純には割り切れないものごとを表したい時、
両極端なもの、共通点を持たないものを2つ1セットで喩えに使うと、「尋常じゃないものだ」と相手に伝えられるんです。
さらに言うなら、
言語表現には、意味を用いて情報空間を操作する機能があります。
相反するはずの意味の融合、は、この機能の具体例のひとつです。
内田也哉子さんは、この、言語の基礎的特徴と、それが持つ極めて強い効果に、間違いなく自覚的です。その証拠に、次の例を見てみます。
注目ポイント3:生き生きとしたフィクションの生成
「裕也を見届けようと集まられたおひとりおひとりが持つ父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。父親という概念には到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を皆さんは確かに感じとっていた。」
参列者と故人との「交感」。
そんなものを感じていない人も、いたに違いありません。
だって、「交感」というものは、脳の錯覚、フィクションなのですから(いわゆる”気”とかに詳しい人はそうじゃないと言うかもしれませんけどね)。
しかし参列者は、「内田裕也と自分が交感している」と他人に言われることによって、「あ、そうか、交感してるんだな」とつい思ってしまうのです。セレモニーの場ですから、なおさらそう思いやすいですよね。
もうお分かりかと思いますが、
ここで内田さんは、普通の弔辞のように故人との思い出や事実を語るのではなく、
言葉を使って、生き生きとした錯覚を作り上げています。
参列者と故人が「交感」するというフィクションを作っている、ということですね。
こうすることによって、聴衆ひとりひとりが別に感じても考えてもいなかったことを、内田さんがスピーチすることによって、感じたり考えたりしてしまうようになるのです。
「死してなお感じられる内田裕也の気配」を聴き手や読み手の脳内に作り上げることに成功した内田さんへは、それゆえ、
「凄まじい」「どうするのこの文才」と賛辞が止まなかったわけです。
事実を語るのではなく、人物像というフィクションを語る。
誰もが同意し頷くであろうことは語らず、聴き手がまだ想像もしていないだろうことを想像させる。
この技、文章を書く時に使ったら、効果的に働きますよ。
もちろん、事実に基づいて読者を納得させねばならない時には逆効果ですが、
潔くこの技術を使い倒す人はプロの小説家にも少ないので、読者に鮮烈な印象を与えられます。
また「叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり」と、激しい動作を意味する動詞を並べていますよね。
私はこれを、動詞の連打、動詞の叩き込み、なんて呼んでいますが、これは聴衆の頭の中に強い感情と身体感覚を錯覚させるのに効果的な技です。
素人がやるとおセンチになりますが、ドライなまま処理できるようにした内田さんの言葉選びの手際はお見事。
そのほか、
「そして自問します。私が父から教わったことは何だったのか。」
と言い、私=内田也哉子がこの文脈の主人公として、内田裕也に代わって前景化したり、
「今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。」
と、カオスという、手垢がついているけれど耳に残る単語で全てをまとめてしまうことによって、前半部の強烈なイメージをわざと弱体化させたりと、
自覚的に活用されている技術は他にもあるのですが、ここらで一旦やめにしておきます。
まとめ
ここでもう一度、特徴としてあげた2点を振り返ってみましょうか。
この弔辞の土台は、言葉の2つの基礎技術、
1:自明と思われていることを、自明ではないことに塗り替える。
2:文脈が先にありそれが言葉に変換されるのではなく、言葉が文脈を作り出す。
だと書きました。
上の3つのどのポイントにも、この2つの技術が使われています。
これはつまり、
「あなた方がよく使う言葉のセットでは説明できないことを説明しますよ。」
「実際の内田裕也という人物を言葉で表現しきれないから、意味を重ねることで私が感じた内田裕也の人物像(というフィクション)をお伝えしますよ。」
というメッセージを、はっきりとは言わないまま、読者に伝えているのです。
以下は補足。
例えばこの記事は、【誰にでもすぐにわかる言葉】のセットで書かれています。
(人によっては難しいかもしれないけど、大体の意味はわかるはずです。)
しかし、高度なレベルの詩や小説は、多くの人が感じた経験が無いであろうことを伝えるために、ありきたりな表現を避け、通常ではあり得ない意味の重ね方をして、言葉の上でしか成立しない、新しい意味を作ります。
文学作品を読んで「え? 全然意味わかんない……イミフ……」と思うことがあったら、90%、これが原因です。
(なので、高度な文学作品を読んでわからないことが多いのは当然です。何年も経ってから読めば、「そういうことが言いたかったのか!」とアハ体験できますよ。物事には、それを理解できる能力と年齢というものがあるのです。)
内田也哉子さんは、弔辞を聴く人・読む人の中に、言葉で表現することでしか成立し得ない内田裕也像を作りつつ(それが本当の人物像だったかどうかはどうでもいいことです)、
理解不能なレベルになるほどには、意味を重ねていません。
この匙加減は見事です。
「どこまでやったら伝わらなくなるか」の力加減を知っている。頭のいいアーティストのお手本みたいな人です。